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2015.04.25

ジャーナリズムとアカデミズムとその国の民度は正比例

近年、マスコミの報道が自己規制により体制翼賛的になってきているようだ。

ジャーナリズムのクオリティと民度は、どうしても相互に影響しあうのでレベルが比例するが、それだけではなくアカデミズムのクオリティとも比例すると思えてきた。なぜなら既存の価値観をブレークスルーするパワーはいずれも共通のものだからだ。

そうしてみると、こと日本に於いて高等教育というものが機能しているだろうか?という疑問が湧いてくる。アメリカも中国も韓国も、日本の産業の黄金時代をよく研究しそれを自国の発展に生かして今日がある。だったら、日本もまたそれらの国の急激な経済成長を冷静に分析し、自国の政策に生かしていくべきであるが、そうした知見も無秩序に散乱してコモンセンスに至らず、報道は煽りの効いた感情的で表層的な固定観念に留まり、抜本的な対応は行われず、結局は過去の遺産の食い潰しで維持するだけの知的思考能力しか見えてこない。

おそらく、日本の学校教育、特に高等教育というものは、人材の評価機関と海外の動向の翻訳・国内導入という2つのことだけでこれまでも維持されており、研究しインキュベーションする機能は殆ど果たしていなかったのではないかと思う。それらの機能を代替していたのは、資金に余裕のある大企業の研究所だったのだろう。ところが、そこに目を付けられ経済的(短期の株主利益重視)、そして政治的(為替レートの国際協調)にコストセンターである研究所など維持できなくなり、その結果、日本にR&Dを執り行うファンクションが消失してしまい、知識人も画期的新製品も経済的な成長もかき消すように失われ、方向感覚の麻痺した世相になってしまった。

話がやや飛躍するが、これから先TPPにせよAIIBにせよ、各官庁間で利害が真っ向から対立する事態となるだろう。そして、省庁によってはその存在意義が喪失する事態も惹起しうるため、凄惨な官僚たちの闘争が始まるかもしれない。また国際的な覇権の流動期、更には自然環境の混乱期に入ってきており、今の政府の知的レベルでは到底処理しきれず、その結果、国内・外ともに大混乱・大不況が到来し、自己責任で各自生き延びることを迫られる日が来ると考えるのが自然かもしれない。

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2015.04.23

人生は芝居、人は役者

昨日のエントリの続き

この世とは、様々な芝居=演劇が同時進行で行われている世界。使えるものは、どんなものでもかき集め場面をセッティングし、基本の導入部はあの世が半強制的に進行させ、あとは役者たちの支援に徹する。

その場面の目標が達成されると、芝居が次の場面に移る。シナリオも登場人物も入れ替わる。メインテーマも変わる。

僕は、こうした芝居の場面への入り方が遅く、そして後まで引きずりやすい。ある場面への適応が密着するほど、次の場面に移っているのに前の場面に執着して、思考や理屈で理想世界を追い求め現実と噛み合わなくなり、その場から立ち去って行くという間違いを何度もして来た。

高次の計画を人間の狭い思考や経験で批評することは、考えてみたらおこがましい行為だ。そして世の中の多くの悲劇は、個人から国家まで、こうした場面の切り替えに自分を曲げられない時に起きるのだろう。

癖とか解釈とか、成功体験、それらが今の現実感覚よりも先行してしまうと、前の場面の良さが裏目に出てくるようになる。もっと自分自身を開放して無防備でいい。その時は意表を突くような設定、配役の組み合わせだと感じられても、拒絶せず「役が回ってきたら何でもやらせてもらいまっせ~」のフレッシュな実験精神を忘れてはいけない。無論、積極策だけが正しいわけでもなく、雌伏して内面を充実させることが必要な段階もある。

自分の小さな世界に拘るのではなく高貴な波動と交信しながら、今いるべき場所と状態は何かを常に探りながら生きていく。

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判断の責任

中学1年後半から2年にかけて、判断に迷うことがあると、大抵土曜か日曜(平日はクラブ活動)に近くの比較的大きな川の土手を歩き、橋の下や小さな流れの段差のある場所で、その問いを考える習性ができてきた。

思考と是非善悪の判断基準とその場の地場による不思議なインスピレーションで、いつも納得した答えを得て帰って行った。だが、今振り返って、いささかの誤謬(判断ミス)があり、それが後々大きく響くことになった。直居あきらブログの昔のエントリを読んでいて、ふとそのことを思い出した。

思考や感情が霊能に勝ってしまう、それは人間でありまだ未熟な年齢であれば仕方のないことかもしれない。だが、事態はそんな生易しいものではなかった。ボンヤリではなくギリギリまで正確な判断を繰り出して行かなくては生き延びることができなかった。まだ若いとか、経験のために失敗してみようとか、そんな甘さの中に驕りの芽が潜んでいた。

今日昼に会社の近くの庭園で受け取ったメッセージでは、当時も今も「もっと神にゆだねて身軽になればいい」とのことだった。自分から無理をして大分あちこち傷んでいるらしい。陽光によりエネルギーチャージを受け取った。

その庭園の大木や池を成り立たせている生命の根源の力は、あの当時も今も共通して天の原型として存在し、私が理想としてきたあの頃、そしてその次の時代、もしくは遥かな前世もそれぞれが仮の一遍のシナリオシーンでしかない。人の世の浮き沈みやら男女の縁もまた然りで、小さな虫の羽音のようなもの。

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2015.04.06

神の祝福を受け取れぬ人たち

魔は後ろ盾のないハグレ者しか狙わない。
どのような系統であれ正神へのコンタクトがあれば、攻撃に逢った魂に呼応して応援する存在が至る所にどこまででも居られるので、魔が返り討ちに逢う可能性が高い。本人というよりも背後を恐れる。

ここで言っているハグレ者とは一匹狼のことではない。むしろ人間の集団に強度に埋没している者で、祈りのない者。正神に繋がる意志のない者は666のフラグを立てられ、時を待っていると思われる。
いちいちは面倒なので根こそぎ群衆を階層ごと、ごっそり網に入れて持っていく積りなのだろう。ハーメルンの笛吹男のイメージに近いかもしれない。(そういえばエコノミスト誌の2015年の表紙の一番左に、この男が載っていますね)

祈りという面では、日本の平均的な人間よりも、他の先進国、BRICS含め生活習慣に祈りと社会奉仕をきちんと織り込んで生活し、仕事をしている者が多いと思う。大局を観ようとしない中での傲慢さで日本はつるべ落としのように運に見放されるだろう。人間側が慈悲を拒否して来た裏返しとして。

日本は特別に用意された場所だと思うけど、今の日本人には似つかわしくない。都会の群衆の精神状況は、もはや救いようがない。裁くことはしないけど、シンパシーも感じない。その波動は雑念としてしか感じられない。


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