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2015.03.08

男女の距離感

学校の同級生の男女みたいな距離感が自然な気がしてきた。

それこそ個人差があるだろうけど、一般にイメージする男女のスタンダードは夫婦という社会制度に縛られて世界が狭いのかもしれない。そして、いろんな側面において相性の良し悪しにこだわり過ぎているのかもしれない。

神は人とそういう限定した狭い付き合い方をしないと思う。あるいは天使どおしの関係も。どうもそこの近くて遠い距離感が難しかった。男女を乗り越えて集団で同じ波動を共有する。そうするともっと楽に沢山の人たちと付き合える。

線引きが難しいのだけど、もっと陽性に大らかなありかたが本来の自然なような気がする。それを動物を無理やり檻にいれるような不自然なあり方を強制しているのではないかな。それによってエネルギーを削ぐ、といった効果のために。


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今の日本を規定した出来事

白井聡『永続敗戦論』や内田樹『街場の戦争論』を読んで、戦後の現象論としてはその通りと感じた。だが、なぜそういうコースを戦前辿ったのかという原因分析には触れられていない。そこは歴史の分野になってしまうから。

そして、それに関して鳥居民『近衛文麿「黙」して死す』と濱田政彦『神々の軍隊』を読んで核心を掴めた感触があった。二・二六において主導権を握った同じ勢力が対米戦回避と終戦タイミングにおいて日本の国体よりも組織や私益を重視して運命を狂わせてしまった。戦後、三島由紀夫は『英霊の声』でそれを的確に表現していた。

「ああ、全ての交錯点はやはり二・二六に行きつくのか。」というのが、通してみた時の感想だった。

二・二六こそ、その後の日本の運命を方向付けた出来事だった。そして大本、天理、金光などの興隆はそれを何とか正しい方向に導くための天の図らいだったと思える。王仁三郎の伝記を読むと、二・二六の伏線は明らかにその前に起きた大本教弾圧に関連している。

そうした視点で見てみると、皇道派はむしろ日本の伝統的な東洋志向であり、統制派は明治の元勲が去った後の新しい欧米的な考え方を持つ財閥・金融に近い志向を持っていたのではないか。皇道派が実権を持たずとも、少なくとも二・二六が回避され両派の勢力が併存していたら、日中戦争も太平洋戦争も今の戦後も避けられた可能性が高い。

二・二六そして三島由紀夫のテーマについて向き合い、それに回答を呈示し、その時点からやり直さない限り日本人が主体的に未来を創り出すことはできないのだろうと思われる。そして予感がするのは、そこに大化改新まで遡らざるを得ない事柄が重なっているような気がするのだ。つまり二・二六もまた過去のモチーフを踏襲しているのかもしれないということ。

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2015.03.07

天井の上にも床下にも世界は広がっている

・転居すると良くも悪くも確実に影響を受ける。

・大きな決断をする、もしくは運命が与えたチャンスに分かっていて
 乗らないと、それに伴って周囲の世界構造が変わる。そして、運命
 が変わったらそれに応じて要求される身代を捨てなければならな
 い。捨てずにしがみつく程に寄ってたかって取り立てられる。

これらのことは、多く重なって起きる。

人の魂は確かに一定の波動や志向を宿している。常にそこに立ち返ることは大切なこと。だが、人間の環境は常に可変であり、天から見て手持ちの材料を組み合わせ、より高度に全体が生かせるようその都度アレンジされる。だから、違うコースに進めばそのコースにあった現実が引き寄せられる。

ギャンブルでもそうだけど、自分がデザインした通りには現実は動かない。逆に自分が認識できる範囲でしか天からの恵みを受け取ったり・気づいたりできない。こだわりや過去への執着は現実と未来を弱らせ、干からびさせる。コースが違ってしまったら、どこかの時点で手放してきれいさっぱり忘れる方がよい。

今見えている世界はこれまでの判断で表現された世界で、これが世界の全てではない。天井の上に別の世界があり、床の下にも別の世界がある。決断の結果で世界は変わりルールも人の縁も入れ替わりが生じる。

だから、運気がおかしいと感じたら直近の自分の行動や物事の理解の中身について再度検討し、見落としが無いか誤判断が無いかを点検する必要があるだろう。

参考:「判断と運勢

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一交不足

ここ数日風邪で寝ていて、夜になると咳とか頭痛がひどくなるので早めに寝るのだが、眠りが浅くてしょっちゅう目が覚めるし、朝は未明からぼーっと考え事をしたりしていた。

生まれてから最近まで、どの人間の魂も個性はあれど理想を目指して生きていると思い込んでいたが、そうした志向を十全な魂とすると、それに属さず一交不足というのか、現世の己の利益を追い求める魂の二系統あると理解できて来た。

一交不足は本音はえげつないから、それをそのままは表現できなくて上手にお化粧した良心的な社会的な顔(表)と本音の顔(裏)を使い分けて生きている。公を私でえぐり取って呵責がないので、そうした者たちの作り出した作品(社会・産業・子育て全般)は後から作り換えないと、他の者にとっては使えない。地位も一種のおもちゃだから、欲しがるくせに当然の厄介ごとが出てくると他に(部下や身分的に下の者)に丸投げしようとする。

こうした者たちに正論をぶつけても、水と油で関係をこじらせるだけ。一交不足どおしは気が合うからスモールサークルを作ってその中で物事を回そうとする。

いわば、これが下元の世の波動で、「一交不足の存在によって行を完成させよ」ということらしい。

これまでの歴史はずっと十全の魂が、神に通じた徳積みで栄華を賜った時、そこに世事に長けた一交不足が取り込み、内部から精神も実態も乗っ取り喰いつくしやがて倒れていく、ずっとその繰り返しのように見える。戦前も現在の日本もそう。かのキリストでさえ一交不足の扱いに手馴れていなくて正面衝突してしまった。

一交不足を育てても、こちらが弱ると寝首を掻かれ母屋を奪われる。攻撃しても裏から毒を盛られるが、こちら側に利用価値があるときは、卑屈なくらいとことん尽くしてくる。だから、こういう者たちに対しては敵対してはいけないが利用されてもいけない。今の下元の世は、一交不足に囲まれた難しい状況で、その者たちにどう向き合い、自分の魂の波動の成長を図っていけるかということが見られている。

「十全な魂は一交不足に対する扱いが完璧にできたら行の完成」ということである。

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