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2014.12.31

大晦日

12月22日に朔旦冬至があり、加えて24日には土星がいて座にイングレスし、年末のあわただしい時期のはずなのに、今年は陽光が穏やかで、静寂な印象のする年末でした。

ずいぶん前に、大晦日の過ごし方が翌年を象徴していると気が付きました。更に今日感じたのは、夜9時頃からはもう正月が始まっているということ。だから身を清め歳神様を迎える準備をしなくてはいけなくて、何より不浄は避け翌年に心を向けて精神的に高めるべきと思いました。風呂に入り服も着替え、もう正月のつもりで物事を進めてなんら問題ありません。やり残したことを持ち越さないようテキパキ処理していく時間帯だと、そういう実感があります。

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2014.12.27

「空気」ごと地すべりが起きている

日本の政治や経済のソーシャルというかフォーマルというかコンサバの世界では一貫して場の「空気」の重力が大きくなっているのを感じる。しかしその反面、「空気」の神通力が弱まっているように見える。(確か中根千枝さんの著書でこのあたりの分析をされていたと思う。) コモンセンスというのが経験則や感受性の類似に立脚しているとすると、社会構造が大きく変化し、前例のない原理原則で判断しなければならない局面において、既視を直観的に選ぶことにより進化を放棄し時代に取り残されてしまう。ぎりぎりまで物事の価値の真価を問い、決断の精度を上げることで生き延びる道も開けて来ようが、自らの価値判断を回避し「空気」に依拠することで、関係者全体でリスクも共同責任も水増ししてうやむやにしてしまい、そのような価値判断を行うものだから、母集団が変われば出て来る結論も脈絡のないものとなり、原理原則に基づく統治が破たんする。

これは人間の精神性の表層しか使っていない状況がもたらしていると思う。そして、各人ごとに必ず踏み絵となる出来事が立ち現われて、その時の意識が魂に刻みつけられそれが霊的な価値の方向に進むか、物質の方向に進むかの分岐点となるだろう。

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2014.12.25

「同時処理型」と「継次処理型」

少し時間があったので、たまたま読んでいた『Software Design』 2013年12月号で面白い記事を見つけた。

人間の脳内の情報処理回路には「同時処理型」と「継次処理型」の2種類があるというもので、「同時処理型」は映像で記憶し、「継次処理型」は時系列で記憶すると紹介されていた。同誌から、もう少し詳しい説明を引用すると、
  P.84
  同時処理型というのは「情報の全体像を把握してその中に細部
  を位置づけるのが得意」なタイプの回路であり、継次処理型と
  いうのは「情報の細部を順番に着実にたどっていくことが得意」
  なタイプの回路です。

丁度、日本人と英語圏のITエンジニアの違いについて思いを巡らせているタイミングでもあり、先日の右脳・左脳とも関係するのではないかと思った。

英語圏の人たちは、文章の羅列の説明をきちんと概念的に理解しそれをリピートできるが、概ね日本人は図で理解しようとする。なので、海外のエンジニアから文章で貰った情報を自分なりに理解して図でお客さんに説明するケースが多い。

2種類の型を右脳・左脳や言語などと結び付けて言及しているサイトは検索した範囲では見つからなかったが、おそらく日本語を母国語としている人は「同時処理型」になる傾向が強いのではないかと思う。アニメの発達もこの「同時処理型」優位と関係していると思う。

ITエンジニアのWorldWideのコミュニティにおいて、日本人は大抵あまりディスカッションの中心にはならず、後から裏でこそこそ交渉したりする。その点、ASEAN諸国および中国、インドは殆どギャップを感じずに方言英語でコミュニケーションできるのが一般的だ。これは英語語学力の問題として認識されるのが一般だが、ひょっとすると「同時処理型」の頭の使い方をする日本人が「継次処理型」でコミュニケーションしようとして出力低下を起こしている状態なのではないかと思った。

英語圏のエンジニアは非常にロジカルでコンセプチャルで、そうした論理性の骨格の上に構造物を現実化していく。従って、最初の完成度は日本人の常識からすれば呆れるほど低いのが普通なのだが、彼らの怖いところは、分析力がありブレずに突き進む意志の強さがあることと、水平分業に適したやり方で、大集団でブツ切りパーツをつなぎ合わせてものすごく短時間で実現する基盤みたいなものを共有していることだ。

多分、高度成長時代までは日本人は自分たちの持つ天才的な全体把握能力で英語圏の人たちが継次処理している間に一気に完成形を作り上げてしまう一致団結したチームプレイが組織として可能だったと思う。だが、今や欧米的感性の刺激ばかりを与えられ、自分たちの性質を欠点だと見なすように仕向けられているように思える。無理をして英語圏の亜流に甘んじようとしているのかもしれないが、おそらく右脳優位の大多数の民族の中では立ち位置を見失い、非寛容のバラバラなムードで戦わずして負け続けているのではないか?

もう一つ、少し論点が違ってくるが、欧米人はキーとなる概念を決してライバルには知らせず自己優位の確保のためにそれをキープし続け、あるいは別のものを争点と誤認させ、相手が勝負の実態を悟らないうちに絶対優位を特許・法律・条約・資本のような縛りで固定させるような、そういう戦い方を好む。このことを丹念に研究されたのが『オープン&クローズ戦略』だった。

これからの産業は、益々仮想化・ソフトウェア化が進むが、現状では日本にとって一方的な負けが続くことだろう。ルールは多国籍の英語圏で作られ、ただ唯々とあるいは周回遅れで標準化に追随するだけの落ちこぼれ集団になるだろう。それらに対して研究機関も政府もまるで眠っているように私企業たる現場に放任しているように見える。

少なくとも、直観的なクオリティのレベルの高さは今でも国際的にトップレベルにあるので、円高が一服したことを受けて、クオリティコントロールのポジションだけでも確保したりできないだろうか?

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2014.12.20

自他の境界

ジョージ・オーウェル『1984年』の小説の世界観は未来を先取りしたものだと思っていましたが、李氏朝鮮時代の両班政治でそうした状況が起きていたことをたまたま知りました。全人口の30%以上が奴婢平均寿命が24歳という記述もあります。

こうした厳格な身分制度で奴隷の割合が多い社会は、結果的に発展が停滞し自壊してしまいます。このような指摘は、ソ連について小室直樹さんが実際に国家崩壊の12年前にされていました。

両班にとって白丁は人間ではなく、人の姿形をした動物という感覚でした。売買・生殺与奪は所有者の自由だったのです。では、現代人は肉食を当然と受け止めていますが、その動物には感情はないのでしょうか? あるいは、山の中に道を通し、ダムを作ったり、海を埋め立てたり、自然を人間だけの価値観で自在に扱って本当に良いのでしょうか? そこに痛みを感じないのは、日本では近代以降、ひょっとすると戦後の新しい感じ方だと思います。『日本語は神である』という本では、日本語の隠された特徴として、日本語は神に言挙げしてそれを相手に伝える「アップダウン構造」をしており、主語がないのは、主語は神様に向けられているからと主張されています。これに対し英語は物と物との「ショートカット構造」とのことですが、これは納得のいく説明です。

角田忠信教授によると、日本人は虫の音を左脳(言語脳)で処理し、西欧人は右脳(音楽脳)で処理するとのことです。日本人は元来、人間個々あるいは、自然物との境界が曖昧で容易に意志疎通して生きていたのではないかと思います。山田貢司さんの「森の魔法」というブログにはこうした植物とコミュニケーションした体験談がたくさん載っています。

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2014.12.14

私有vs共有

先日、此の世の中に「人間を家畜とみなす」か、「神の分身とみなす」かという人間存在の意味の大きな立ち位置の違いがあると書いたが、それと同じような意識の違いが共有と私有の意識の割合の違いにも表れるということに気が付いた。

戦中・戦後は階級という壁が取り払われ、公共が社会の中に占める割合が大きかった。その反動で、団塊の世代以降はマイホーム(核家族)中心、個人中心に文化が進み、公共(空き地や自然環境、伝統)を金銭化・私有化していった。その結果として、今の日本人(特に人口密集した都会人)の行動の端々に他人との境界線上のものは自分が手に入れるという私有への執念のようなものを感じる。それは、イメージとして『千と千尋の神隠し』に出て来るカオナシのように、何にでも貪欲に手をだし、すぐに目移りする悪食の所有疲れが社会を覆っている。

そして、おそらく私有の意識の方向性では、一から価値を創造するということができなくて、既存の何かを援用して自分を成り立たせているだけだ。それ故に、日本企業は国際競争力を急速に失っている。言い換えれば、昔の日本の強みは共同体意識が企業組織の内外、社会全体の中に定着していたからだと思う。私有の発想では、同質的な者どうしがカルテルを結んで人間に階級を作り、優位な立場を定着させる階層社会を形成して行く。それは人間が人間を家畜にすることだ。だが、そうした社会はロスが多くイノベーションができなくて、歴史的にみるとやがて他の集団組織に滅ぼされていく。

これから先、社会基盤が崩れるようなことが起きると、共有の発想に馴染める人は共同体を形成して生きていけると思うが、私有の発想を捨てられない人や組織は、簡単に奪い合いになり弱肉強食の果て文字通り消滅していくだろう。

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2014.12.11

2つのコースの分岐

昨日、秘密保護法が施行されました。時流の変化は急速に監視社会になってきました。ジョージ・オーウェルの『1984年』の世界観に近づいて行っている感じがします。

これまで生きてきて、この地球には2つの別々の発想が共存していると感じます。人間を家畜とみなすか、神の分身とみなすかという違いです。このまま人間精神の家畜化が進むと、この地球は精神性のない物質だけに着目した奴隷・機械化社会となり、魂の監獄となってしまうでしょう。こうした事柄に関して『宇宙全史』という本のシリーズではかなり纏まった答えを提示してくれています。宇宙的な自滅の遺伝子をもった存在が人間誕生の際に関与していたということです。そして、それはやがてこの地球上から去っていくとも書かれています。

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2014.12.07

トカゲのしっぽ切り

最近、色々なところから、もうすぐ「トカゲのしっぽ切り」が始まるという話を聞く。それはミヒャエル・エンデの童話『モモ』で時間どろぼうが消滅していく過程とそっくりだ。地球の意志がもうそうした存在を許さないのだという。

次の選挙で選ばれる政府は、そうした役回りを与えられるのだろう。

昔は、目の前に問題を見つけたら自分であるべき姿を思い描き、その実現のために渦中に飛び込んで行くタイプだった。ところが、最近になって昔の資料が出てきて読んでみると、その時の自分が置かれた状況、周囲の反応、そして現在の結果を今の時点で俯瞰すると、自分をすり減らして川の流れを堰き止めようとしても、それはどこか無理や間違いがあるのだと気が付いた。壊れるべきものは壊れていくべき運命なのだ。善・悪とか正義とか義侠心とか、そんな人間的な3次元の感性では結局何の役にも立たなかった。4次元で、もっと大きな気の流れのような事柄を理解しないといけないと自覚した。

天とのつながりが最も大事。それさえ見失わなければ無事。それを蔑ろにすると二度と戻れなくなる。

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2014.12.06

中今に生きること

『トランス・ヒマラヤ密教入門 第2巻』 P.134 より
奉仕するあなた方すべては、華々しくなく重要には見えない役職を生涯続けていく覚悟をしなさい。なぜなら、それがあなたの宿命であり、あなたが最も奉仕できる場所であるかもしれないからである。しかし同様に、(中略)状況が――奉仕者の計画ではなく――その時が訪れたことを示すとき、明らかにより価値のある仕事に就く用意もしておきなさい。


コメント
最近、かつての自分の生き方を答案の答え合わせをするように意味を知らされたり、反省したりすることが多い。こうやって、過去を変えることができるのかと気が付いた。それは、実際に起きた出来事を書き換えるという意味ではなく、その価値を変化させること。そして、当時は未来からの働きかけが無意識界に届いていたという印象もある。こうして、時空を超えて意識は未来も過去もそして身近な人が自分に働きかけたり、そうして中今の意識が進んでいく。しかし、重要なのは生まれる前の意識の原点に立ち返ること。その時神様に何を誓い、何の目的でこの世に向かって一歩を踏み出したか。その時の自分の意識を思い出すこと。生まれてからの出来事に左右されることなく、今一度振り返ってみるとよい。一つの波動・目的に染め抜かれているはず。

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逆「生命の樹」

「生命の樹」が逆転したものを「死の樹(もしくは知恵の樹)」と言うようです。「ケリッポト」で検索すれば沢山出てきます。

DNAも「生命の樹」もエネルギーの流れは螺旋階段のようになっていると思います。そして精神性の波動が高まるのが時計回り=右回転だとすると、物質性が強くなるのがその反対の左回転だと思います。宇宙空間には上下はないので、今自分が居る立ち位置から努力して右回転していると自分では思っていても、反転した樹「死の樹」を降下しているかもしれないです。降下の特徴は精神性を手放して物質的・此世的な価値を追い求めること。上下の感覚が麻痺しているのです。

「生命の樹」が上に向かい「死の樹」が下に向かっていて、それらは3次元的には一つの軸ですが、それを平面上に2次元的に表現すると、それは右回りと左回りの渦で表現できます。こうした図形をつい先日、足利美術館で開催されていた「スサノヲの到来」という展示の中で藤白尊という方の天津神算木で見ました。

今の日本を含め、地球の人間の集合意識は「死の樹」を加速度的に降下して行っているのを感じます。それは精神性を捨てて物質の価値だけを追い求めているからです。このまま降下が進むと此世の形質を維持できず、その波動主体が変質・解体に向かうと思います。それが人体や社会に表れ、あるいは自然界に影響を与えて様々な困難を産み出していくでしょう。神道の大祓祝詞ではさすら姫がそれらを解体分解し原子レベルに戻す役割を持っています。それがまた新たな創造の素材として利用されるのでしょう。

元々高次元の精神界からこの物質界を形成するためには、降下が必要だったのでしょうが、今はちょうど更に降下を望む存在(左回り)と上昇を求める存在(右回り)に分離が始まっていると思います。ブラヴァツキーの『シークレット・ドクトリン』あるいはシュタイナーも今が降下の下限点で、次の人類は今より精神的に上昇した位置に戻ることを示唆しています。人間世界を超えた宇宙法則の基準を明確に意識しないと、人間界のコモンセンスだけを基準にしていると、上下を逆転して意識してしまうでしょう。もう、そうした生き方は時期的に許されなくなってきていると思います。2007年頃から徐々に変化が始まっているという実感・予感があり周囲にも伝えましたが、全く理解されませんでした。311で変化が進んでいることを確信しました。

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2014.12.01

カバラ「生命の樹」

昨日、「神智学協会日本ロッジ」の勉強会でカバラの話があった。
その中で講師の方がポツリと、「人間は一段堕落して生成され、その鍵は抜き取られたダアートにある」と語っていた。その部分については時間もなく深く追及されなかったが、自宅に戻ってふと思い出して「生命の樹」+「堕落」などのキーワードで検索すると興味深い記事がいろいろあった。その中でも次のコンテンツは非常に面白かった。

スウェデンボルグが説く「善悪を知る木」と「堕落の原因」と「最後の審判」

これはある意味「宇宙創成論・人類創成論」でもあり、魂の成長を促進するために限定的に自由意志を与えられた人類(仮免みたいなものか)が、バランスを失い天上界とのチャネルが切断した形でどんどん神の世界から遠ざかっている状態、それが今の人類だという理解です。

僕は、最近よく自由意志を返上して天上界につながる意識状態で過ごしていたいと思う。アリスベイリーの著作を読んでから、特にその意志が強まってきたと思う。

自由意志で生きることの意味は大きい。それが自分が思い描いていた通りの人生だった人もおれば、そうでない人もいるかもしれないけど、個という小宇宙を自分で采配したという経験は天上界(エデンの園)に居ては分からないことだろう。だけれども、現実界の世界観だけに沈んで行くと、天から切り離された生命の宿らない「死の樹」から逃れられない。それが今の地球の人類の閉塞した状況の原因だろう。

これから変化の時代が来るとしても、尚更「静を守る」ということが重要だ。天上界に意識を向け、その世界を主とするときに、この世の嵐雷とは別世界の晴天が広がっている。その世界での五感で判断しなさいと言われている。今は、心ある人はそれぞれの覚醒に努めていなくてはならない時期。そのような人は、世界中にバラバラに散らばっていると思うし、人類だけではなく、目に見えない存在どおしが魂のネットワークでつながっていると感じる。だから時流に対峙するのではなく自分を磨いて磨きこんでいく。一人ではなく、そうした魂のネットワークに繋がって、みんなで歩んで行く。

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