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2005.04.15

未来志向組織ラフイメージ

『正論』5月号の「朝日はなぜかくも反日・
左翼の新聞になったのか」を読んで、
会社の国士的な人物が政治の中枢へ招き入れられ
ることによって、組織がイデオロギー性を帯びて
しまい結局それが出世の道具化していく。
会社組織が、耐用年数を過ぎて時代遅れになって
いるのではないかと思った。

このところ、話題を提供していた会社
(例えば三菱自動車、NHK、朝日新聞、フジ
テレビ)が共通のメカニズムで組織の硬直化が
起きていて、それは一流大企業そして官僚まで
日本を覆う多くの組織がそうした病にかかって
いるのではないかと思われる。

悪く言うと、サルの集団のようだ。外部に
あわせて適切に組織の適応ができず、
組織を組織あらしめるため、Yesマンだけが
中枢を握っていく。それによって、組織権力
は内部に向けて体制は安定するが、時間が
止まっていて時代に適応できない。

ここ数日、組織の力学を変えていかないと
この硬直化はどうしようもないのではないか
と思い始めていて、そのきっかけは、シュタイナー
の本でちらっと見た宇宙的な意識というもの
がどうにも気になっていたからだ。
これは、何かあるかもしれないなと思って
星の動きを確かめてみたら、確かにはっきり
出ていたので、書き留めておこうと思った次第。

※4月13日の22時13分に水瓶座で海王星と
火星が合で、それに対して木星と月がグランド
トラインを形成していました。(クリックで拡大)
chart20050413

ちょうどその頃から未来の組織のあり方
についてイメージすることが多かった。
(普通なら、そのまま忘却に任せるような
茫漠とした内容なのだが)

こういう星の配置であれば、何か意味があるかも
しれないと思ったのでまとめてみる。

結局、いまの日本の組織力学の多くは
情報の価値というものを正しく評価・認識できていない。
きわめて本能的な(つまりはサルの集団のような)
力関係で成り立っている。それは、頭脳の無い
手足だけの組織で指示系統のないまま実行組織だけ
があるようなもの。グルジエフの言う機械と一緒。
だから、そういう組織の中でKM(ナレッジ・マネジメント)
やっても、情報を握りつぶされてしまう。
組織にとって受け入れられる範囲のことしか
受け入れない。
まさに、満州事変以降の大日本帝国と同じ。
本来であれば、その実行部隊を動かす上位の
主体が存在して指示しなければならないのに、
その主体がないので、首から下だけで、どこへ
さ迷って行くか方向が見えない。

ここ数日思ったのは、現在の世俗権力者も受け入れ
ざるを得ないような情報の価値を客観的に評価できる
指標のようなものがあれば、あるべき姿に近づける
ことができるのではないかということ。
卑弥呼の鬼道のような方法では、第三者が評価
を下せない。でも、客観的にそれを評価できれば
何が真実かというターゲットに集団として焦点を
当てられる。

そして、いまの会社組織のようなものは、
もう時代遅れでもっと小規模な目的別のCELL組織
がアメーバ状に連携する形がふさわしい。アルカイダ型。
既に軍事の世界では、こうした新しい戦闘について
の研究が進んでいる。正規軍対ゲリラ組織では
戦闘の形式も変わってくる。企業というか
民間組織もいずれそういう方向に行くのだと思う。
そうしたとき、当然、国籍・国境・性別・人種・
そうしたものが関係なくなる。
いまの中国、韓国の反日の風潮というのは、
国という単位では解決できないと思う。
それらを透過するCELL組織が発達してきて
初めて対立を凌駕できる。
また、そうしたCELL組織であれば国別の通貨では
なくいわゆる地域通貨のようなものを使う方が
ふさわしい。
また、産業革命はエネルギー革命だったように
大量消費、大規模集積の逆ベクトルを持つ
エネルギーの自給体制がこうした社会を
後押しすると思う。

いまは、高度成長の残滓を引きづった団塊の最後の
世代が頑張っている。彼らは早晩引退するが
そうして初めてこうした組織の変革が水面下で
静かに進行するのだと思う。

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2005.04.12

女の子ども、男の子どもの親としての感覚的違いについて

最近、自分の中の古い滓のようなものを
エネルギーにして活動しているなと思う。
やっぱり自分の中では、時間は70年代で
止まっている感じがする。
心地よさの感性とか、物事への姿勢のよう
なもの。鮭が生まれた川に回帰するように
気が付くと、結局この人生はこのまま行けば
この一定の盤上に配置されるのだなという
感覚。実は、70年代にも同じ感覚はあった。
そのときは、紐の片方だけ握っていて、
先は見えなかった。
今では紐の長さが実感できるようになってきた。

決して、責任転嫁するわけではないが
家筋というか家柄というか、端的には
両親の志向というのが、人生にとって
決定的に大きい気がする。結局、
その枠を完全に無視して自由に自分自身
を確立するというのは、やはり困難なのでは
ないか。
もし、そうした家の枠を感じずに成長できた
としたら、それは相当親の配慮が行き届いて
いたからではないかと思う。

親になって見えてきたもの、それを書き記して
置こうと思う。男児については、自分が男だから
ある程度、想定の範囲内だが、女児は、自分の
兄弟に女がいなかったから、親になって非常に
新鮮だった。
男親としては、自分の幼い娘に理想の女性像
を投影してしまう。純粋な女性らしさの原点
みたいなものを発見して、女性の成り立ちと
いうのか、昔少し知り合った女性の感じていたこと
そして、そのとき時折垣間見えたその女性の
親がどのように娘を育てようとしていたかなどが、
今となっては良く理解できる気がする。
女児は基本的に親とスキンシップするのが好きだ。
それは、大人になっても変わらないのかもしれない。

男児の場合、成長するに従って、自分の領域
を確立しようとする。能力があってプライドが
高いほど、その縄張りは威嚇を伴う。
わが家の場合、まだまだ幼いが、思春期に入ると
一モツを持った者同士、何らかの折り合いを
付けることを迫られる予感がする。
それは、男の業のようなもので、
正義とか正義でないとか、そうした価値観で
一度はばっさり斬られるときが来ると思う。
それは、自分にとっては安住の場所が
狭くなるような気にさせるが、それを
受け入れて息子の背中を押してあげないと
一人前の大人になれないのだと思う。
誰でも一度は生意気になって、それから社会と
折り合いをつけるものだから。

そうして、振り返ると、私の父親は
そうした生意気さを嫌って私に対して、
押さえ込もうとしたり意志の疎通を絶とう
とした形跡がある。
私は、ある時期、家の引越しを経験し
まさに、家の内外ともに敵しかいない
状況に遭遇していたのではなかったか
と今になって感じることがある。

それゆえ、冒頭に言った家柄とか
家風というものには勝てないなあと
思うのだ。極論すると、付き合う相手も
そうしたものの影響を受けているのではないか
と経験的に思う。

そして、ふと気が付くと、
日本とアメリカの歴史を振り返ると
同じ構図が見える。
そう考えると、アメリカは精神的な日本
の父親には結果的になれなかったと
言えるのではないか。父親的な時期も
確かに在ったかもしれないが、
それは日本が幼年期だけのことであり
青年期に差し掛かると、アメリカは
常に父親としての行動は取れなかった
なということがわかる。
結局、精神的に親子としてではなく、
一介の男と男としての関係
しか結べなかったのだなという
ことを、私の実の親と比較して
実感するのである。
そこに、アメリカの未熟さを見る。

どんどん自己を拡張しようとする国家、
ナポレオンやヒットラー、関東軍
それらは、そうした男の成長の過程の
通過儀礼としての社会との折り合い
というものを見失っているのではないか。
そして、M&Aなどを通して領土ではなく
金融で他を飲み込もうとする、最近の
アメリカの考え方やそれを是とする
ホリエモンや村上ファンドなどの価値観も、
一段の精神的脱皮が必要なんじゃないか
なあと感じる。
そして、同時に結局戦後の日本は男である
ことをやめて女として生きることにした
のではないかということも見えてくる。

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